初めての岩手県・遠野で民話体験 -7 [トラベル]
馬がいるわけではないので、静かなものでした。
玄関というか、土間の台所から階段を上って家の中に入ります。
囲炉裏には鉄瓶がかかっていて、電灯を使って赤く燃える炎の演出をしている
かと思ったら、実際に火がついていました。
昔はテレビがあるわけでもなく、家族で囲炉裏を囲んで今日の出来事や昔から
の伝承を話して聞かせていたのでしょうが、夜は長かったでしょうね。
隣の部屋には米俵。今もお米は大切な主食ですが飢饉の多かった遠野地方では
土蔵に入れるよりも家の中で大切に保管されていたのかも知れません。
河童の伝説も、飢饉や貧困によって子供を育てることが出来ずに、子供を川に
流して間引きをするという因習の結果として、川に流されて亡くなった子供の
水死体(死後の腐敗によって、人の姿からは変わってしまっている)を河童と
呼んで供養したのではないかという見方をしている郷土史の研究家もいます。
南部藩は藩の命令として農民に稲作を強制していましたが、元々が肥沃な土地
ではないために収量が少なく、もっとも酷い宝暦5年の飢饉では、東北地方で
5万人もの人が餓死していることもあって、姥捨てや間引きは日常的にあった
という悲惨な出来事があったのも事実ですから、そういう事実を直接的に表現
することで役人から睨まれないために語り部によって伝承されたのが遠野物語
の中に残っているということもあるかと思います。
いつの時代にも役人=政治家が世間知らずの間抜けだと、国民が苦労するのは
変わらないわけで、江戸時代のように一揆を起こされないように、政治家たち
はメディアに介入し、政府に従順な人間を増やし、政府に批判的な人たちには
レッテルを貼って腑抜けな社会を作るのに必死ですが、歴史は繰り返されると
いう言葉は決して嘘でも誇張でもなく、時代の転換期は来ると思います。
なんてことを遠野に行って思ったわけで、まだまだ物事を見て考える力はある
ものだなぁと自分に感心しました。(行動するには年を取り過ぎましたが)
という話はともかくとして。
部屋の中には大きな神棚があり、いろいろな神様が祀られていました。
人間の力など自然現象の前には小さなものですから、頼める限りの神様を祀り
平穏な生活を願っていたのでしょう。
遠野物語では山神とか、山男、山女、山姥など、山に棲む、いろいろな神様や
物の怪みたいな話が集められていて天狗も出てきます。
天狗は赤ら顔の大男で、鼻が高いというか長いというか、一種異様な外見だと
されていますが、外国の船が流れ着いて生き残った外国人だという説もあって
領内から外に出るにも一苦労する時代に外国人を見たら、さぞかし驚いたこと
でしょうね、という感じで説明がついてしまう感じはありますね。
動物の経立(ふったち)という話も残っていて、動物が年を経ると怪しい能力
を身に付けて怪異を起こすというもので、サルの経立は里の女をさらっていく
とされていて、体毛に松脂を付けて砂をかけているので鎧のようになり鉄砲で
撃っても弾が届かないとされていましたが、これも実際には猿の仕業ではなく
悪意のある人間の仕業だったのかも知れません。
用途の説明がないのでよくわかりませんが、農作業に出かける際に小さな子を
入れておくための籠なのでしょうか?貧乏人の子沢山なんて言葉もあるぐらい
で、江戸時代に避妊の方法が確立していたとも思えないですし、子供が多くて
間引きするぐらいの飢餓に襲われたこともある反面、亡くなる子供の数以上に
多くの子供を産まないと家督が残せないぐらい厳しい環境でもあったことから
基本的には子供は大切にされたのではないかなと思います。
「ねべや」は考えるまでもなく寝室ですね。
着替えを入れる箪笥やお出かけに使う鞄なども置かれていました。
養蚕用の蚕棚。農業以外に現金収入を得るための仕事として蚕を飼って、絹糸
を紡ぐのは重要な産業であったようで、オシラサマも桑の木から作られている
ぐらいに、蚕と蚕の餌になる桑の木は大切にされていたようです。
現代では桑以外を食べる蚕も、遺伝子技術で作り出されていますが、江戸時代
明治時代には蚕は桑の葉しか食べなかったので、桑の木を育成することも重要
な仕事の一つだったでしょうし、桑の木を神様にしたくなる気持ちを理解する
ことは難しいことではありません。
一瞬、機織り機かと思いましたが、縦糸と横糸を通す部分が無いので、蚕の繭
から糸を引き出すために使う機械ではないかと思います。
子供の頃に近所の家で機織り機で反物を作っているお婆さんがいて、その頃の
記憶では機織り機はこのような形ではありませんでした。
何年頃の写真かは分かりませんが、外の湯殿じゃないですしお風呂を沸かす釜
もそんなに古さを感じないので、昭和30年代位じゃないかなと思います。
それでも60年以上前ですが、自分が生まれた年の頃だとそんなに古い時代だと
感じないので、歳を重ねるというのはそういうことなのでしょう。
本物の婆ちゃんが来訪者が来るたびに昔話をするのは無理ですから、最新式と
いうわけでもありませんが、婆ちゃん人形がオシラサマの話をしてくれます。
遠野物語を読んでいれば良いですが、オシラサマのお話を知らないと御蚕神堂
の意味も今一つ分からないかも知れないので、話を聞くと良いですよ。
民話というか伝承の背景とか、実際に曲り家を見たりすることで実際に体験は
出来ませんが、目で見て感じられることってありますよね。
遠野物語を読んでなにかを思った人は是非一度、遠野に行ってみて下さい。
オシラサマの御蚕神堂の話は、次回で短めにするようにします。
遠野では、曲り家見物はしておりませんが、別の東北地方で見学した記憶があります。
厳寒な地域ではこのような家がありますね。
by ヨッシーパパ (2023-06-21 21:20)
ヨッシーパパさん:
コメントありがとうございます。
南部藩は馬の育成に力を入れていたので、南部藩の藩政下にあった地域
では厩と住居が一体化した曲り家の構造が適していたようです。
東北地方では馬の祭りが多いのですが、青森県から秋田県、岩手県まで
の広大な地域を治めていた南部藩の影響が大きいと思います。
南部藩とは関係なく、福島県の相馬とかでも自宅で馬を飼っている人が
現在も存在しますから、東北地方と馬の関係は深そうですね。
by suzuran (2023-06-22 01:33)
ねべや いいですね〜〜〜ぇ
by lamer2 (2023-06-22 02:16)
lamer2さん:
コメントありがとうございます。
寝室ぐらいならともかく、最近はホテルの部屋でも英語とかフランス語
の表現があって、小賢しい表現を使うなと言いたくなります。
シンプルなのがわかりやすいですし、平仮名は見た目が優しいです。
by suzuran (2023-06-22 02:29)
このシリーズ、遡って読ませていただきます。
by リス太郎 (2023-06-22 08:42)
プリントしてファイルします。
by リス太郎 (2023-06-22 08:43)
神棚の玉紙、とても懐かしいです(*^^*)
by 溺愛猫的女人 (2023-06-22 13:06)
リス太郎さん:
コメントありがとうございます。
遠野旅行の際には、そんなには参考にならないかも知れませんが、道標
ぐらいにはなるかも知れません。
by suzuran (2023-06-22 23:27)
溺愛猫的女人さん:
コメントありがとうございます。
子供の頃に、母の実家の本屋(母の父の実家)に同じような感じの神棚が
あったような記憶がおぼろげにあります。
by suzuran (2023-06-22 23:30)