江戸時代末期、日本国内が内戦状態だった時に、鳥羽伏見の戦いから敗走した
佐幕派は上野で官軍(薩摩・長州連合軍)を打ち払うはずだったものの幕府側
の敗北は確定的であり、江戸が火の海になることを危惧した勝海舟と西郷隆盛
の会談により江戸城の無血開城、大政奉還への道筋が出来ました。
勝てば官軍と揶揄されるように、薩摩・長州の兵員の中には隊の規律を守らず
平民から財物を脅し取ったり、女性を暴行するクズも存在していたため、官軍
が新政府軍(明治政府樹立の立役者)、幕府軍が賊軍(反政府軍)として護国
神社に祀られることもないのは正しい歴史の見方ではないというのが個人的な
見解ですが、そういう話をする記事ではないので、歴史の話はここまでです。
幕府側が降伏して新政府への移行準備が進み始めても、それでもまだ抵抗する
勢力として残っていた新撰組と会津藩(会津藩は京都で暗殺、朝廷襲撃の謀議
が盛んに行われ始めた頃から京都守護職を拝命し、後に新撰組を組織して京都
の治安を守る役割を任されましたが、この役職を引き受けたが故に戊辰戦争で
官軍の標的にされ、倒幕後には会津藩が激しい攻撃を受けました)は会津での
決戦を想定して会津藩の中に四つの部隊を組織しました。
18歳から35歳の正規軍の主力部隊として朱雀隊、36歳から49歳の当時の壮年
が所属する正規軍の防衛隊として青龍隊、50歳以上の現役から退いた藩士たち
によって組織された予備隊としての玄武隊、そして16‐17歳の藩士の子息たち
によって結成された警備隊の白虎隊を組織し、この少年兵である白虎隊の悲劇
が現代まで語り継がれているわけです。
ということで前節が長くなりましたが、若くして散った白虎隊のお墓をお参り
したいという以前からの思いを実現するために会津に行きました。
三月初めの寒い時でしたので、街中はともかく白虎隊終焉の地である飯森山も
雪が残っていて、地面に水溜りが点在している状態でしたが、お墓参りをする
ことは出来たので、当初の目的は果たすことが出来ました。
という会津の旅行記をこれから書いていきます。