が、肺炎のため急逝しました。享年87歳。葬儀は近親者のみで執り行われると
いうことで、お別れの会などの予定は発表されていません。
新作映画「世の中にたえて桜のなかりせば」の、4月1日の公開を間近に控えて
3月10日には車椅子で完成披露舞台挨拶にも登壇していたということで、次作
以降には社会問題に踏み込んだ映画を作りたいと、意欲を語っていたほど元気
だったようですが、高齢者の肺炎は怖いですね。一瞬で命を奪います。
冒頭に書いたように「ゴジラ」シリーズで子供の頃から見慣れていたことから
1950年代にデビューしたベテラン俳優の割には、多くの出演作品を見ていたと
感じる理由なのかな、と思います。
印象に残っているのはNHKの朝ドラ「私の青空」で、ヒロインの婚約者の父親
村井譲二役を演じ、アメリカのエンターティナー気取りのピカピカの服を着て
シメサバと呼ばれていたのが、何故か妙に記憶に残っています。
初めての主演作品が、1954年公開の「ゴジラ」第一作ですから、ゴジラの歴史
と共に俳優を続けてきたというような感じでしょうか。
そもそも「ゴジラ」の原点は、水爆実験によってゴジラが目覚めたという設定
であり、反核、反戦のメッセージが込められていた作品です。
1954年は日本の漁船、第五福竜丸がビキニ環礁の水爆実験で被爆した年です。
広島、長崎、そして第五福竜丸の被爆によって日本だけが核兵器による被害を
受けた国であり、核兵器の恐ろしさをゴジラという怪獣に置き換えて作られた
映画が「ゴジラ」という作品なわけです。
ハルビンで子供時代を送り、旧ソ連軍の支配下に置かれた日本人居住エリアで
ソ連兵の横暴により、銃弾を受けたり、婦女子が暴行される現場に出くわして
憲兵隊と救出に向かうといった経験から、反戦の思いを強く持たれていたため
インタビューでも「私は戦争の否定者」だと断言しています。
ウクライナにロシアが侵攻し、日本の与党政調会長がもしも日本で同じことが
最後の一人まで戦うという口先だけの勇ましさを演じている今の時代に、戦争
の怖さ、愚かさを実体験して、反戦の意志を強く持つ宝田明さんが亡くなって
しまったことは、とても残念なことだと思っていますが、天国から戦争の無い
世の中を作るように導いてくれることをお願いしたいです。
宝田明さんのご冥福をお祈りします。