務めた大島康徳さんが、公表していた大腸、肝臓、肺など複数の部位のがんに
より6月30日に亡くなっていたことが発表されました。
私が小学6年生の昭和49年、中日ドラゴンズが昭和29年以来(生まれる前の
ことなので、昭和29年の優勝は見ていません)の20年振りの優勝を決めた年
板東英二が歌う「燃えよドラゴンズ」で、一発長打の大島くんと歌われた長打
が魅力の代打の切り札として活躍し、ドラゴンズファンの少年たちからは谷沢
や藤波(この年のルーキー)と同じく人気選手でした。
中日球場(現ナゴヤ球場)にヤクルト戦を観に行った時、試合終了後に選手の
出入り口前で待っていた時に、大島選手が出てきましたが人気選手だった上に
きれいなお姉さんならともかく、ガキんちょ相手なので超塩対応でしたが隙を
見て握手(勝手に手を握ったとも言う)した時の手は意外に小さく感じたこと
を今でも覚えています。この時に大島選手はスカイラインで走り去りました。
大島さん自身のブログで人当たりが悪いと書いていますが、ホントに人当たり
が悪くて、他の選手も何人か出てきましたが一言も口をきかずに手の平だけで
どいてどいてとあしらわれたのは大島選手だけでした。
それからしばらくして名古屋市内で交通事故を起こし、目にラジオのスイッチ
が入ったというニュースを聞いて、もう野球選手として試合に出ることは無理
なんじゃないかと思いましたが、割と早く復帰しました。
昭和57年に近藤監督との指揮の下で優勝した時は、5番レフトのレギュラーで
この年の「燃えよドラゴンズ」でも名前が出ていますが、昭和62年のオフには
中日ドラゴンズから日本ハムに移籍し、日本ハムに移ってから日本プロ野球の
顕彰団体の入会基準である2,000本安打を達成しています。
ルーキーとして入団して3年ほど1軍での活躍がなく、日本ハムに移籍してから
も選手の晩年には代打中心でしたが、引退時には2,204本の安打記録を残して
いますから、全盛期の活躍がどれだけ凄かったかということですね。
がんに向き合う大島さんのブログを、ずっと(全てではありませんが)読んで
きて、本当に残念でありながらも「幸せな人生だった」というブログの言葉で
本当に家族に恵まれて、幸せに人生を生き切ったと感じました。
大島康徳さんのご冥福をお祈りします。