以前、滋賀県のUCC上島珈琲と国立印刷局の工場見学をした時のことを書いた
ことがありますが、コロナ感染症が全国に拡散中ということで、行きたい工場
はたくさんありますが、現実的に無理というのが実際のところです。
かつては飛鳥四大寺の一つだった川原寺跡地(現在は弘福寺です。)
そんなわけで現代の人が製造する工程が見られないのなら、歴史のある遺跡や
建造物、自然など、野外であまり多くの人と過密にならないところに行こうと
いうことで、出かけた先の話を大人の社会見学として書くことにします。
本当は興味のある工場の見学をして、その話を書き綴ってシリーズ化しようと
思っていたのですが、今年中になんとかなるとも思えない状況ですね。
言いたいことはいろいろあるけど、今回は止めときます。
さて、大人の社会見学の話は飛鳥(明日香)です。
現代のように皇族の中で、皇位継承順位に則って平和的に天皇が引き継がれる
世の中ではありませんでしたから、飛鳥時代の始まりの頃は実質的には天皇を
支配していたのは有力な大臣、蘇我馬子でした。
日本最古の寺とされる飛鳥寺を創建したのも蘇我馬子で、飛鳥には蘇我馬子に
関連した遺跡が多くありますが、その蘇我馬子の墳墓だと推定されているのが
石舞台古墳で、飛鳥のシンボル的な存在になっています。
今までに4回、明日香村に行っていますが、まともに写真を撮ったのは初めて
という感じがします。(桜の季節に行ったのは初めてということもあるかも)
大きな石を30個積み上げた石室の古墳で、本来は土が盛られた中にあるはずの
石室が露出しているのは、蘇我馬子の生前の行状の悪さから後年になって墓の
盛り土が省かれて、ある種の見せしめにされたという説がありますが、真実を
知る人は誰もいません。(1500年も前のことですからね)
蘇我馬子は天皇を擁立する権力を持ち、崇峻天皇を立てましたが意に沿わない
関係になると速やかに暗殺して、欽明天皇の皇女で、歴代最初になる女性天皇
となる推古天皇を立て、女性天皇の時代は36年続きました。
蘇我馬子は聖徳太子(厩戸皇子)と共に、推古天皇を支えましたが621年には
摂政の聖徳太子が没し、蘇我馬子も626年に入滅、推古天皇も628年に崩御し
一つの時代が終わったわけで、蘇我馬子が亡くなった頃は、蘇我一族の権力は
まだ絶頂の時代だったために大規模な墳墓に葬られたと思われます。
その後を継いだ子の蘇我蝦夷と孫の蘇我入鹿が、蘇我馬子を凌ぐ暴政を発揮し
推古天皇の遺言(実際には、大臣の蘇我蝦夷の判断という説が有力)によって
擁立した舒明天皇(田村皇子)の時代になりましたが、蘇我蝦夷の傀儡だった
ということで、事実上、蘇我一族が国政を司どっていました。
そして舒明天皇が崩御した後、皇后だった宝皇女が皇位を継承して、二代目の
女性天皇となる皇極天皇として即位。皇后時代には中大兄皇子と大海人皇子の
二人の天皇を産んだとされていますが、大海人皇子の父親は舒明天皇ではない
という説もあって、中大兄皇子と大海人皇子は異父兄弟かも知れません。
現在の眞子様結婚騒動など比べものにならないぐらいスキャンダラスな皇族の
自由奔放な恋愛が、飛鳥時代にはあったかも知れません。
皇極天皇の時代、厩戸皇子と蘇我馬子の娘の間に生まれた山背大兄王が従兄弟
の蘇我入鹿に攻め滅ぼされる事件が起き、中大兄皇子と中臣鎌足の怒りを買い
皇極天皇の御前において蘇我入鹿の首がはねられ、蘇我蝦夷も同日に自害して
蘇我一族の隆盛は終焉となり、時代は蘇我氏の滅亡へと動き始めました。
というような異母兄弟の権力闘争の時代から同じ場所にあるのが、石舞台古墳
で、この古墳の前ではないにしても、血で血を洗う時代の変遷を眺めてきたと
いうことで、この石室の前に立つと思いは遥か飛鳥時代という感じです。
桜がきれいだったので桜の写真も撮りました。
江戸時代にはすでに露出した状態になっていて、キツネが妖女に化けて石室の
上で踊ったという伝説(そんな伝説は無いという説もあり)から、石舞台古墳
と呼ばれるようになったとされてますが、これも真相はわかりません。
離れたところから見ると石舞台に見えないことはないですね。
故・手塚治虫氏の「三つ目がとおる」の中に、飛鳥をテーマにしたエピソード
があって、小学生の頃に読んだ、この漫画で飛鳥に興味を持ちました。
その漫画の中でも石舞台のことが書かれていて強く記憶に残ったわけです。
飛鳥時代の前半では蘇我氏の隆盛と衰退が、天皇の即位に大きく関わっていた
わけで、その時代の遺物こそが石舞台古墳だと思います。