光化門から中に入ると宮殿の広さに圧倒されます。
朝鮮王朝の正宮として建てられたのが1395年。新羅、百済、高句麗の三国時代
が終わり、朝鮮王朝が建国されてから三年後にソウルが首都と定められて宮殿
としての機能が集約されたのが景福宮だったのですね。
最盛期には門の内側に500棟の建物があったらしいです。
朝鮮王朝が平和に繁栄していた時代は、1592年の豊臣秀吉による侵略の企てに
よって景福宮が全焼する不幸に見舞われました。
安倍晋三がいくら小賢しいことを言おうが、日本人である豊臣秀吉が朝鮮まで
攻め入って宮殿に火を放った事実は変えることは出来ません。
焼け落ちた宮殿は不吉だとして放置され、再建されたのは200年以上の歳月を
経た1868年でしたが、それから30年も経たない1895年に第26代国王・高宗の
王妃・閔妃が日本の公使である三浦梧楼の指示により日本の公使館員達に殺害
されるという事件(乙未事変)が発生し、高宗はロシア公館に避難し、日本は
朝鮮を侵略、日韓併合によって日本の統治下においた景福宮では大半の建物を
打ち壊すという暴虐の限りを尽くした上、あえて勤政殿の前に朝鮮総督府庁舎
を建てるという子供じみたことをして優越感に浸ったわけです。
豊臣秀吉の時代に宮殿を焼き払い、昭和になって再び宮殿を破壊するといった
狼藉の限りを尽くしておいて、日本は植民地主義に対抗して云々とか安倍晋三
が大嘘をこいていましたが、過去を謙虚に反省することなく歴史を捻じ曲げる
発言を続けているのですから嫌われるのも当然です。こんな歴史修正主義者を
支持するネトウヨも含めて、日本の品位を貶めるクズだと思っています。
という歴史の話はともかくとして、現実の話に戻します。
この広場で守門将交代式が行われますので紐を張って準備が整っていました。
600年前には、この広場は王の護衛をする近衛兵達が外部からの敵襲に備えて
配置されていて軍事訓練などが行われていたようです。
広場側から中を見ると興礼門がそびえ立ち、さらにその奥に建物があります。
光化門からこの興礼門までの間は入場料は必要ではありませんので、奥までの
建物は見なくても良いから交代式だけを見れればそれで良いという人は入場券
を買わずに交代式を待てば良いと思います。
有料ゾーンに入って最初に目につく建物は勤政殿です。
「世の中の事柄は勤しむとうまくできる」という意味がある建物で、国家儀式
を行ったり、王が臣下に対して朝礼を行ったりしていたようです。
政治を行うものは勤勉でなければならないという意味もあるようですから現在
の漢字も読めないバカな日本の総理大臣には全く当てはまらない話ですね。
奥まで歩くと国王が御前会議を開催した思政殿や国王の寝室、王妃の寝室など
多くの建物がありますが、速足で歩いて三時間、丁寧に見たら一日でも厳しい
と言われる宮殿ですからね、さすがに約一時間では無理でした。
最後にソウルの観光パンフレットでもよく登場する慶会楼です。
国王が側近の臣下と外国からの使者を出迎えるために行われた宴会などで利用
され、現在のように誰もが近付ける場所ではありませんでした。
現在は内部の観覧も可能にはなっていますが国宝ですからね、誰でもいつでも
ご自由にどうぞというわけではなく事前の予約が必要になっています。
早回りで有名なスポットだけを周った感のある景福宮でしたが、交代式の開始
が近付いてきたので、ここまでが限界でした。
ソウルへの旅・9月編-9
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