レーサー・高橋国光さんが死去 [訃報・追悼]
日本で初めてF1が開催された1976年、この頃はまだフルエントリーのチーム
以外にも、スポット参戦が出来るとか、現在のようにFIAが主管するレースで
ポイントを稼いで発行されるスーパーライセンス制度がルール化されていない
時代だったので、日本で最初のF1(富士スピードウェイ)には日本のメーカー
や日本人ドライバーがエントリーして出走しました。
1976年の結果は、フルエントリーのサーティースからスポットドライバーと
して出走した高原敬武が9位、小島エンジニアリングが設計した国産シャシー
にフォードのエンジンを積んだKE007で出走した長谷見昌弘が、11位に入って
日本一速い男と呼ばれていた星野一義、桑島正美はリタイヤしています。
以外にも、スポット参戦が出来るとか、現在のようにFIAが主管するレースで
ポイントを稼いで発行されるスーパーライセンス制度がルール化されていない
時代だったので、日本で最初のF1(富士スピードウェイ)には日本のメーカー
や日本人ドライバーがエントリーして出走しました。
1976年の結果は、フルエントリーのサーティースからスポットドライバーと
して出走した高原敬武が9位、小島エンジニアリングが設計した国産シャシー
にフォードのエンジンを積んだKE007で出走した長谷見昌弘が、11位に入って
日本一速い男と呼ばれていた星野一義、桑島正美はリタイヤしています。
その翌年、立ち入り禁止区域に入り込んだ一部の観客の居るところに、事故で
空中に飛び出したマシンが落下して死傷者を出す大惨事になりましたが、この
レースにも日本人ドライバーはスポット参戦して、9位に入ったのが高橋国光
で、星野一義は11位、高原敬武がリタイヤで終わっています。
現在は10位までが入賞ですが、この頃は6位までが入賞だったので残念だった
わけですが、走り馴れた富士スピードウェイだとはいえ、フルエントリーして
転戦しているドライバーたちとのレースで10位以内というのは立派な戦績だと
思いますということで、この時に9位に入った高橋国光さんが死去しました。
1960年にホンダのバイクレースのワークスチームからデビューして、翌年に
ドイツで初優勝 (正確には冷戦時代だったので西ドイツでの開催でした。)
二輪で活躍後、四輪に転向して、ツーリングカーから富士グランチャンピオン
レース、F2、F3000などに出走し、ル・マン24時間レースでもクラス優勝を
している日本有数のレーサーでした。489回参戦して通算71勝。
今は一般的にはレーシングドライバーと書きますが、二輪ライダーから四輪に
転向し、両方でレースに参戦しているのでレーサーと書かせていただきます。
現役を引退したのは59歳(1999年)
その後は、チーム国光の監督としてホンダNSX、HSV-010で参戦し、2018年
2020年には、SUPERGTシリーズのGT500クラスでシリーズ優勝など、日本の
モータースポーツ界の長老的な存在でした。
死因は未公表ですが、82歳で亡くなられたとのこと。
高橋国光さんのご冥福をお祈りします。
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