SSブログ

大人の社会見学 飛鳥編-3 [おとなの社会見学]

亀石を見てから、長い坂道を下ると天武天皇・持統天皇陵があります。
二人の天皇が葬られていますから規模も大きく小山のように盛り土があります
から、陵墓を造営するのにかなりの労力が投入されたことでしょうね。

tenmu_emperor-1.jpg

天武天皇は実際に話したことは当然ないので、深い部分はよく分かりませんが
ちょっとめんどくさい性格なような気がします。




飛鳥時代の天皇は飛鳥編-1でお話しした皇極天皇の時代の半ばで、蘇我氏から
実権を取り戻したわけですが、乙巳の変【宮中(飛鳥板蓋宮)において謀反を
画策したとして中大兄皇子と中臣鎌足によって蘇我入鹿が処刑された事件】の
後は、皇極天皇は弟の軽皇子に譲位をしたため孝徳天皇が即位しました。



孝徳天皇は大化の改新を行った先駆的な人のように伝えられていますが、実際
に多くの改革の素案を作り、強力に推し進めたのは中大兄皇子と中臣鎌足だと
されていて、孝徳天皇との折り合いが悪くなると、飛鳥から難波長柄豊碕宮に
遷都することを持ち掛け、実際に遷都した後に再び飛鳥に都を移して孝徳天皇
を孤独な状況に追い込んだ挙句、病死させます。

孝徳天皇の即位後、中大兄皇子は皇子である有馬皇子に謀反の罪を被せて処刑
を命じ、孝徳天皇の皇位継承者を消すことに成功しました。

孝徳天皇が崩御した後、皇太子である中大兄皇子は即位することなく譲位して
退位して皇祖母尊(すめみおやのみこと)を名乗っていた母の皇極天皇に即位
をさせて斉明天皇と擁立し、政治の実権は中大兄皇子と中臣鎌足が握り続ける
ということで、事実上の傀儡政権の状態が続きました。

新羅と唐の連合軍に攻め込まれた百済を支援するため、筑紫に朝倉宮を造営し
戦いに備える最中に斉明天皇が崩御(中大兄皇子による暗殺説あり)
朝鮮半島へと出兵したものの白村江の戦い(水軍の戦い)で大敗して撤退。

しばらく即位せず皇太子のまま政務を執った後、都を近江大津宮に移して即位
天智天皇として政治を行い、有能な大臣として仕えた中臣鎌足が病死する直前
に藤原姓を与えて、藤原鎌足として送り出してしばらくしてから、天智天皇も
病に倒れ、弟の大海人に皇位を譲ることを伝えたものの大海人は禅譲を固辞し
剃髪して吉野で出家しました。

天智天皇が崩御後、天智天皇の皇子である大友皇子(弘文天皇)が即位。
しかしながら、吉野で僧職に就いたはずの大海人が地方の豪族の支援を受けて
挙兵し、大津で争い(壬申の乱)が起き、最終的に大海人が勝利し、大友皇子
は自害して大海人は天武天皇として即位しました。

天武天皇の皇后は、天智天皇の皇女である鵜野讃良
要するに大友皇子の姉妹であり、姪が叔父に嫁いだわけですね。
「うののさららのひめみこ」は本当はもっと難しい漢字ですがJISコードには
ないということで、簡単な字にしています。



兄弟を殺して天皇になった叔父の元で、皇后になり、さらに天武天皇が崩御後
には即位して持統天皇になったのですから、この時代の皇族は弱肉強食の実力
社会だったわけです。皇女姉妹の息子である大津皇子には謀反の疑いをかけて
自殺に追い込み、自分の息子の草壁皇子を皇太子にするなど、さすがに女帝に
なるぐらいの人ですから半端なく強い女性だったのでしょう。

さらに複雑な姻戚関係が続きますが、書けば長くなるので止めときます。
ともかく、天智天皇が「私はもう長くない、後は頼んだぞ」と大海人に皇位を
譲ろうとしたにも関わらず「兄上、私は皇位には興味はないので、吉野に行き
僧侶になります」と、天智天皇の複数の皇女を連れてサッサと吉野に移り住み
天智天皇の息子である大友皇子が叔父上、ご指導ご鞭撻を宜しくお願いします
と挨拶に来た時の何が気に入らなかったのか挙兵して、甥を自害に追い込んで
天皇に即位するとか、めんどくさい性格じゃないですか?



天智天皇は大海人の妃だった額田王を自分の妃として差し出させ、その代わり
に4人の皇女を大海人の妃として与えたとか、兄弟間で奥さんを交換するのは
ちょっとどうだ?とか、いろいろと思うところはありますが妃が四人の他にも
夫人が三人とか、江戸時代の大奥とまでは行かないものの、血統を残すために
何人もの子供を作っていたわけですね。

tenmu_emperor-2.jpg

というようなことで、天武天皇の簡単なお話でした。(かなり複雑かな)
天武天皇は石棺で墳墓に収められ、盗掘に遭っても遺骸は残っていて、身長は
175センチほど、頭蓋骨には白髪が残っていたようです。
持統天皇は崩御後、火葬(史上初めて火葬された天皇ということです)されて
銀の骨壺に収められて天武天皇陵に合葬されています。

天武天皇陵は飛鳥にありますが、天智天皇陵は京都の山科にあります。
大津に都を移した後、近江大津宮で崩御されているのに京都に陵墓を作るのも
不思議な話ではあるのですが、異説として天智天皇は山科に狩りに出かけた際
に行方不明になり、沓だけが見つかったため、そこに陵墓を築いたという説が
あり、その行方不明の真説として考えられているのが、天智天皇との長く複雑
な関係を清算したい大海人に殺されたという話で、日本書紀よりも信頼できる
内容だと考えている人も多くいるみたいですが、1,350年前のことですからね
真相を探求する証拠はありません。

天武天皇・持統天皇陵を遠くから見た後、高松塚古墳に移動しました。


nice!(44)  コメント(0) 
共通テーマ:旅行

nice! 44

コメント 0

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

Facebook コメント






Copyright (c) 2013-2021 suzuran All right reserved