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飛騨川バス転落事故から50年 [記念日・昭和の記憶]

私の今迄の人生の中でも、もっとも現場に近い場所で起きた大きな災害の
飛騨川バス転落事故から50年が経ちました。

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50年も前のことなんですが、子どもの頃の経験というのは意外にも鮮明
に覚えているもので、さらに文章にしていくと激しい雨音とか川幅一杯に
流れていた水の様子を思い出します。

この事故があったのは、私が小学校1年生の頃のことで、正確な年月日で
言うと昭和43年8月18日のことでした。


岐阜県中濃地域(美濃地方)は、激しい集中豪雨のためにメインルートの
国道41号線が、ところどころで小規模の土砂崩れが発生していたために
大渋滞というよりは、事実上の通行不能の状態でした。

私は母の実家で、今までに見たことのない激しく恐ろしい飛騨川の濁流を
小学生でも眠気を感じることなく真夜中まで起きて見ていたのでした。

翌朝、台風一過という感じで、きれいに晴れ渡った青空でしたが、実家の
目前を通っている国道41号線の車列は微動だにしない状態で昨夜からの
渋滞がそのまま続いているということがわかります。

それからしばらくして、単車で様子を見に行っていた、母の弟(要するに
私のおじさんにあたります。)が帰宅して、白川(JR高山本線の白川口
という駅のある周辺)の先で、観光バス二台と乗用車何台かが、がけ崩れ
に巻き込まれて川に落ちたらしいという情報を聞いてきました。

前後を土砂崩れで挟まれて孤立してしまっていた観光バス(岡崎観光)の
車列の中央にあたる部分に、沢から崩れ落ちてきたダンプカー250台分
に相当するとされる土石流が直撃して、一瞬にして真横を流れる飛騨川の
濁流の中へと落とされて流されてしまったというものでした。
註)土石流の規模などは、後年の資料で見たものです。

土石流によって道路は使用不能となり、高山本線も土砂崩れによって寸断
されてしまっているために、事故現場は陸の孤島状態となり本格的な救助
活動をすぐに行なうということは出来ない状態でした。

上流からの濁流が収まり、事故現場の直下のダムを放水しないとバス自体
を視認することが出来ないというような状態だったため、自然の猛威には
人力が勝てるはずもなく、一旦ダムの水を放水するまでは、なす術もない
というのが実際のところだったと思います。

そして、結果として104人の方が死亡し、生存者は3人だけという凄惨
な災害になり、日本のバス事故史上最悪の悲惨なことになりました。

生存者の一人は観光バスのドライバーで、バスが転落する際に偶然窓から
外に放り出されてしまい、思わず掴んだのが柳の木の枝だったという事で
柔らかくしなる柳の木に体重を支えられて、濁流の中に落ちずに済んだと
いうものでした。(伝聞なので、どこまでが真実かは分かりません)

後の二人も同じような状況で、バスが土石流に押し流される一瞬の偶然で
たまたま窓から飛び出てしまったために、バスもろとも川に落ちなかった
というのが生還の理由だったように記憶しています。

重機が入り、自衛隊の救難出動によって、道路上の土砂が撤去され崩れた
山肌に、二次災害防止の応急措置が施されて、国道41号線は片側通行で、
運用が再開されましたが、ずっと足止めされていた人が一斉に通ったのと
高山本線が寸断されてしまったために、中川辺という駅までは鉄道の代替
輸送がバスだったので道路は大渋滞でした。

事故現場を通った時に、小学一年生の私は背が低いので崖下に落ちていた
バスの様子は見えませんでしたが、大人たちの会話ではボコボコに潰れて
川底に落ちているという状況だったようです。

私に見えたのは、川に沿って続く国道のガードレールに延々とかけてある
衣類と、向い側の山沿いからJR(当時は国鉄)高山本線の線路が枕木が
付いたままでダラーンとぶら下がっていた光景でした。

濁流の中に放り出された人たちは、水流が激しかったために着衣が脱げて
しまい、川の水が減った後に水に浸かっていた木々に衣類が引っかかって
いたものを回収してガードレールにかけていたようです。

その後、救難部隊の必死の捜索にも関わらず、濁流に流された遺体の収容
は難航し、一部の遺体は何ヶ月も経ってから木曽川(飛騨川は、犬山市で
木曽川と合流して木曽川になります。)の中流や河口部、さらには伊勢湾
でも発見されるということになりました。

伊勢湾でも遺体が見つかり始めた当時は、伊勢湾や木曽川の魚は「人間の
死体を食べている」という理由から、売り物にはならなかったという話も
とてもおぼろげながら聞いたことがあるような記憶があります。
今でいうところの風評被害ですね。

ある家族の話では、行方不明になっていた人が、お母さんの夢枕に立って
砂の中に埋もれていて苦しいから助けて欲しい!と訴えたので、その夢で
見た景色と同じような場所を探し出して、河原の砂を掘ってみたところ、
夢で助けを求めた本人の遺体が出てきたという話も聞いた事がありますが
ありますが真実の話なのかどうかまではわかりません。

現在では、遺体の収容が行われた場所に「天心白菊の塔」という慰霊碑が
建立されていますが、事故の直後から慰霊碑が設置されるまでは、道端に
寂しげに立っている女性を通りかかった車の人が気の毒に思って車に乗せ
どこへ行こうとしているのですか?と聞いたところ「愛知県の岡崎まで、
帰りたいんです。」と言われたので、何か予感を感じながらも、次の駅で
降ろしてあげますね、と言って振り向くと水だけがシートに残っていた、
とか、現場周辺の川の中から断末魔の女性の叫び声や呻き声が聞こえた、
なんて話もありましたし「おかあさん!」と泣きながら呼ぶ子どもの声が
聞こえた、という話が地元の人や通行車両の人からも出ました。

大きな事故だったので、それを知る人々の心の中にも「無念だったろう」
という気持ちがあるために、そのような話に繋がったのだと思いますが、
シトシトとそぼ降る小雨の中を夜間に、この慰霊碑の前を通るのは今でも
あまり気が進まないのは確かです。
※ 大雨だと有無を言わさずに通行止めになります。>事故の教訓。

今迄で最大と書きましたが、このような悲惨な災害に遭遇することは絶対
に避けたいというのが私の願いであり、多くの人の願いだと思います。


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