燃える男・星野仙一さんを悼む [訃報・追悼]
まだほんの一か月ほども前に星野さん自身の殿堂入りパーティーの挨拶で
来年は阪神と楽天で日本リリーズを戦えるようになれたら良い、みたいな
話も出ていましたし、楽天の納会でも今年何が足りなかったのかの答えを
出して来シーズンに向かいましょうと、一か月後に亡くなるような病気で
あることを感じさせない力強い挨拶をしていたのに、年末には病状が悪化
して亡くなってしまうなんて本当に青天の霹靂でした。
昭和49年(1974年)、昭和29年以来20年ぶりの優勝がかかった
試合のマウンドにいたのは星野仙一投手、キャッチャーはマサカリ打法で
捕手でありながら打順が6番だった木俣達彦でした。
相手は大洋ホエールズ(現:横浜DeNAベイスターズ)でしたが、最後
のバッターの名前は全く覚えていません。
星野投手が投げた球が打たれ、レフトへ抜けるかと思われた打球をサード
を守っていた島谷金二内野手がジャンプして捕球して、中日ドラゴンズの
20年ぶりの優勝が決まり、マウンドに駆け寄った木俣捕手が星野投手に
飛びついた映像は今でも覚えています。
前年に大ヒットしたブルース・リーの「燃えよドラゴン」から連想された
球団応援歌「燃えよドラゴンズ」を、当時はまだローカルタレントだった
板東英二が歌って球団応援歌としては異例の大ヒットとなり、あの頃には
商店街でもラジオでもいつもかかっていました。
中日新聞と読売新聞の代理戦争なのかはわかりませんが、ドラゴンズ最大
の宿敵であるジャイアンツが相手の時ほど燃えると言ったのかは、今一つ
記憶にありませんが、燃える男・星野仙一と呼ばれ始めたのは優勝した年
ぐらいからだったんじゃないのかな。
優勝した当時に一緒に試合に出ていた広瀬宰さん(ショートを守っていて
応援歌では8番バッターです)、稲葉光雄さんはすでに故人となっていて
優勝当時の監督だった与那嶺要さんも鬼籍に入っていますが、まだまだ、
70歳ですからね、もっと生きて欲しかったです。
昭和49年の優勝の頃は娯楽は少ないけど空き地は多い時代でしたからね
今とは比べ物にならないぐらい大人も子供も野球をしていました。
現在では公園でキャッチボールをすることは禁止ですし、車に金属バット
なんか積んでいるのを見られたら、警察に事情聴取される時代ですからね
隔世の感どころじゃありません。
そんな時代に子供だった私だからこそ、当時の野球選手に対する思い出は
多いのかも知れませんし、良い時代だったように思います。
優勝当時の一発長打の大島康徳さんは、昨年ステージ4の大腸がんを発表
手術を受けて現在も仕事を続けていますが、がんの部位とか、薬との相性
などクリアしなければならないことは多々あるようで、誰もが普通の生活
に復帰できるわけでもないというのが、がん治療の現状のようですので、
大島さんには星野仙一さんの分まで長生きしてほしいものです。
いろいろな思い出がありますが、人が死ぬ時というのは本当にあっけない
ものなんだなというのが実感ですね。
先に逝かれた奥様と天国で仲良くされているかと思いますが、子供なりに
全盛期の燃える男の雄姿を見られたことに感謝しています。
ありがとうございました、ご冥福をお祈りします。
こんばんは。星野さん本当に残念です。人を引き付けるトークもさることながら野球をこよなく愛していましたね!阪神や楽天のイメージありますがやはり星野さんと言えばドラゴンズですね。天国でも野球して欲しいです。
by みぃにゃん (2018-01-14 20:22)
みぃにゃんさん:
コメントありがとうございます。
私は基本的に非体育会系で鉄拳制裁とか全く肯定できない人なんですが
中村武志や今中慎二、立浪和義など星野監督の時代の主力選手たちの
追悼コメントを読んでいると単純な支配者と支配下選手という図式を
超えた関係を認めざるを得ないように感じています。
私が小学生から中学生の時に見た選手としての燃える男、星野仙一
引退後に見てきた監督としての燃える男、星野仙一
そのどちらにも今では古臭いと言われる情熱、男気、連帯みたいな
ものが強く感じられて、人としての魅力に溢れた人でした。
本当に残念ですが、みぃにゃんさんが書かれているように天国で
奥さんと語らいながら、稲葉氏や広瀬氏と野球を楽しんで欲しいです。
by suzuran (2018-01-14 22:03)